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【名  称】 ZIDAI_01.JPG いよっ!日本一!
【掲載月日】 1995/9/9
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【登場人物】 塙団右衛門直之
【制作環境】 PowerMacintosh 7100/80AV ArtPad KT-0405-A
              GT6500ART2 PhotpShop3.0J
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 えー私、戦国武将やら幕末の志士やらが好きなんで、こんな絵を描いてしまいました。
 塙団右衛門は初陣が秀吉の朝鮮出兵の時なので、厳密に言うと戦国じゃなくて
 豊臣期から江戸時代のちょっと前と言うべきでしょうか…
 
 今回、こてこての厚塗りをしたかったので、一度 ArtSchool Dabblerでチャレンジ
 したんですが、どうにも細かい所がうまく描けなくてダメでした。
 やっぱ廉価版お絵描きソフトじゃ限界が…ぺいんた欲しいよ〜(T_T)
 で、PhotoShopに戻ってブラシのウエットエッジでひたすらペタペタと塗りました。
 あ〜しんど(^^;)
 PhotoShopじゃきれいになりすぎちゃって紙に描いた様な雑さを出すには難しい
 ですね。
 あ、あと言い訳ですが(^^;)馬が小さいのは、団右衛門が人並みはずれて大きい
 のと、この頃の馬は今の西洋馬みたいに馬格が大きくなく、ロバに毛のはえた
 程度(今でも木曽馬なんて残っていますがあんな感じだと思います)だった為。
 でもちょっと迫力無いですね…
 
 以下かなり長いですがお暇と興味のある方はおつきあい下さい。
 
 【時代背景】
 え〜そもそも何故塙団右衛門なのか?といいますと、う〜んそうですね…
 戦国時代真只中の武将も魅力あるのですが、特徴として戦国の群雄割拠を生き
 残る為のそれなりの狡猾さというか、武勇だけじゃ生き残れず、ましてや一族
 郎党を率いて家を滅びさせるわけにはいかないものですから、どうしても計算
 高く動いてしまう。たとえ主家を裏切っても強い方につくという、陰謀と裏切り
 の世界ですよね。
 明らかに負けそうな戦はしないか、寝返るか…とにかく「義」の無い時代
 でした。
 「義」という観念が芽生えてきたのは、関ヶ原での石田光成からでしょうか
 (と私は勝手に思っている)主君であった秀吉の遺児秀頼への「義」
 また、負けると思っても石田方に荷担した大谷吉継も「義」によって動いた
 と思います。
 
 で、時が過ぎ、徳川家康がおおかた天下を取った形になり、最後の仕上げとして
 巨城大阪城と秀頼を何とか滅ぼそうとします。
 関ヶ原の合戦で敗軍となり、領地を召し上げられ諸国に浮浪していた牢人達が
 大阪城に望みを賭け続々と集まってきます。
 
 夏の陣では優勢だった大阪方も、戦後の講和で家康の術中にはまり、城の外堀
 を全て埋られてしまいます。裸同然となった大阪城ではもう勝ち目は有りません。
 ところが続く冬の陣でも名だたる武将が大阪城に集まって来ます。
 一足軽クラスの人間なら希望をもって入城したのでしょうが、冷静に形勢を見て
 取れる大名クラスの人物までも大阪側に付きます。
 俗に「大阪城7将」といわれる人物達、真田幸村、後藤又兵衛、長曽我部盛親ら。
 そんな中に塙団右衛門直之も7将の一人として入城します。
 
 では何故彼等は負けると解っている戦をするのでしょう。もともと彼等はそんなに
 秀吉に恩を受けたわけでは無いので、秀頼に対する「義」では無いでしょう。
 事実、秀吉の子飼いの大名、加藤清正や福島正則らが既に徳川側に付いているのに
 彼等外様の真田や長曽我部、陪臣の後藤や塙が大阪方に付くのは不思議です。
 では何故か?一つには彼等は関ヶ原で敗軍側となり、全ての領地を無くし、謹慎か
 牢人の身で失うものは何も無かった事。そして、彼等は本来ならこのまま歴史の
 表舞台に出ず、一生を終えてしまう所であったが、自分に宿る稀に見る武略の才能を
 試して見たかった事。つまりぱぁーっと一花咲かそうかい!って心意気ですなあ。
 
 よく「名こそ惜しめ」といいますが、彼等はこのまま歴史の裏に朽ち果ててしまう
 より、後世に名を残す為に参戦したのかも知れません。
 実際、真田幸村は目覚ましい働きでさんざんに徳川方を悩ましたし、他の武将も
 すばらしい戦いをしました。
 私は戦国時代の様に領土欲や出世欲に駆られた武将よりも、大阪の陣の武将に
 たまらない悲しさと男としての美しさとロマンを感じてしまいます(T^T)クゥ〜
 
 でもどうして真田幸村や後藤又兵衛を描かずにあえて塙団右衛門なのかと申しますと
 前記2者は大阪方を担う軍師権最高司令官ですから、どうしても指揮してる姿になって
 しまい、団右衛門の様に一騎駆けの突進姿が描けないからです。
 
 と…前置きが長くなってしまいましたが以下塙団右衛門について。
 
 【塙団右衛門直之】
 秀吉の子飼い大名、加藤喜明に召し抱えられるが、
 なかなか戦場に出してもらえず時を過ごす。
 天正19年秀吉の朝鮮出兵の時、剛力を見込まれ旗持ちをする。
 日章旗を背にかかげ一軍の先頭に立って行く姿は明軍を驚嘆させたという。
 その後石取りになり、関ヶ原では鉄砲大将に抜擢されるが合戦中持ち場を離れて槍働きし
 嘉明は後で「おまえは所詮大将になれぬ」と激しく叱咤する。
 団右衛門はそれに怒り勝手に城を飛び出した。嘉明は彼を「奉公構い」にする。
 #「奉公構い」とは諸大名に書状を回して「この男を召し抱えてくれるな」という法的処置
 その後、京都の妙心時の雲水に落ちぶれ、大阪の牢人招募とともに入城し、
 冬の陣では阿波の蜂須賀の陣中に夜襲し潰乱させた。
 
 【作品のシーンについて】
 元和元年、大阪夏の陣。塙団右衛門は紀州から北上する浅野勢2万を討つための先鋒
 となって大阪城を発した。主将の大野治房は先鋒大将を岡部大学に命じたが、それより
 先に先鋒を志願していた団右衛門は喜ばず、手兵2百を率いて突出、岡部との競争と
 なる。いつしか自分の隊とも孤立し、浅野の家老、亀田大隅、上田宗固ら3千の軍勢の
 中、ただ一騎走りこんでしまう。
 驚いたのは浅野勢。ただ一騎で突進してきたこの男に「なに者じゃ」と騒ぐ。
 「われこそは右大臣家の家来塙団右衛門直之である!討って功名にせよ」
 ひしめく軍兵を突き伏せ、突き上げ、鬼神の様な働きをする団右衛門。
 やがてついに上田宗固家来、横井平左衛門の槍に致命傷を受け、尚も倒れず、
 死にのぞんで辞世の詩を書き付けようやく地にたおれたと言う。
 
 所で絵の中の英文に冬の陣とありますが、夏の間違いです(^^;;
 それに無茶苦茶な文章なので間違いだらけと思います。
 突っ込まないでね(^^;)。
 
 以上ダラダラとまとまらない文章ですいません。
 おつきあい頂き本当にありがとうございます。